2018年01月08日

浅田真央アナザーストーリーズその2、プルシェンコ、タラソワ、ソトニコワが語る








アナザーストーリーズ 運命の分岐点「浅田真央 伝説のソチ五輪」

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今年2017年4月、フィギィアスケート選手浅田真央が引退しました。長きにわたって日本中のファンをとりこにしてきた真央ちゃん。親しみを込めて「真央ちゃん」と呼ぶ人も多い愛されたスケーターです。


第1の視点「プルシェンコ、真央の代わりはいない」
第2の視点「ソニコワ、女王が敬服した」
第3の視点「タチアナこれは悲劇だ」




浅田のショートプログラムでのトリプルアクセル1回、フリーで2回のトリプルアクセルを成功させました。女子選手がひとつの大会で3度ものトリプルアクセルを飛んだのは、史上初めてのことでした。



だが、金メダルの栄冠は、韓国のキム・ヨナに輝く。この結果に日本のファン以上に憤ったのがプルシェンコでした。



「トリプルアクセルを跳んだのだからもっと高い点をつけるべきだ」


と発言。大きな物議をかもしました。


――プルシェンコ
ほんとうのことを言っただけだよ。まぁあれ以来韓国には全く呼んでもらえなくなったけど、かまわない。だって、スポーツはスポーツだろ?オリンピックは芸術祭じゃなくて、スポーツの大会なんだ。ウサイン・ボルトが誰よりも早くはしったのに、走り方が美しくなかったから2位です、とかあり得るかい?最も難しいジャンプを跳んだ選手が最も良い結果を得るべきだ。


――プルシェンコ
まあ、ぼくもあの大会では、金メダルが取れず、銀メダルで終わったんだけどね〜〜。


バンクーバーでは、プルシェンコも悔しい思いをしていました。4回転ジャンプを誰よりも多く跳び、金メダル確実かと思われていたが、採点の結果は、アメリカのサイザーテックに敗れました。


オリンピックの借りはオリンピックで返す。
プルシェンコも浅田真央も4年後のソチ大会を目指すこととなりました。


迎えた2014年、ロシア・ソチオリンピック。
この大会のフィギュアスケートには、それまでと大きな違いがひとつありました。それは、団体戦の実施。


個人戦の11日前、団体戦に参加した浅田真央は、

――浅田
予想以上に自分が緊張してしまって、自分の練習通りの演技ができませんでした。

と演技を終えてインタビューに答えています。


「ジェーニャ!ジェーニャ!」(プルシェンコの愛称、ロシアでは定番)

一方4度目のオリンピックとなったプルシェンコも、団体戦は初めてでした。
大きな歓声、自国開催の重圧ものしかかる。


――プルシェンコ
あの時は、9ヶ月前に椎間板ヘルニアの手術をしたばかりで、100%の演技ができるか正直不安だった。でもだましだまし頑張った。ロシアでやる以上、僕がチームを引っ張らなきゃならなかったから…。


この時大ベテランの31歳、しかも怪我からリンクに戻ったばかりでした。
―――だが、4回転半、3回転半、ダブルループなどノーミスの演技でプルシェンコに導かれたロシアチームは、団体戦金メダルに輝きました。


ただ、その代償は大きかったのです。プルシェンコは、団体戦4日後の男子個人ショートプログラムの本番直前練習中に体に異変を感じ、演技を辞退、この瞬間プルシェンコのオリンピックは終わったのです。


――プルシェンコ
あの練習で、ジャンプの着地をしたとたん、腰にものすごい激痛が走ったんだ。椎間板の手術をしたところのネジが完全に外れていた。


団体戦のダメージは想像以上に深かったのです。



では、同じく団体戦に出場した浅田には不安はなかったのでしょうか。
これについては、本人にしかわからないところですが、個人戦初日の演技については浅田本来のものでは到底ありませんでした。


ショートプログラムまさかの16位…トリプルアクセルの失敗からミスが続きました。


――プルシェンコ
真央の滑りに元気を貰おうと自宅でテレビを観ていたんだけど明らかに調整がうまく行ってなかった。疲れなのか練習のしすぎなのか…。でも彼女を責めてはいけない。フィギュアスケートというのは、本当に難しいスポーツなんだ。アイスホッケーとかサッカーとかのチームスポーツなら交代してもらうこともできる。ケガしてベンチに下がっても、チームが勝てば勝者になれる。でもフィギュアスケートは違う。常に最高の自分でなければならない。だから練習しても練習しても、練習し足りないように感じてしまう。むしろ称賛すべきは、真央が次の日に、本来の自分の演技を取り戻したことだ。それは、並大抵の選手にできることじゃない。


そう、そのわずか1日後、生涯最高得点の演技を披露することになる。


引退会見時、浅田は、「リンクのドアを開けた瞬間、これはやるしかない、とやる気になった」と気持ちが切り替わったことについて話していましたが、これについてプルシェンコは、


――プルシェンコ
これはそんなに難しいことじゃない。だって、それができるからあのレベルなんだもの。…ぼくらは氷の上で3回転半、4回転跳べる。人間としては、極限の世界にいるんだ。審判も観客もその虜さ。誰にもできない技ほど、みんなを支配できる。目が離せない。それができるのがぼくらなんだ。


公式戦で、10年以上トリプルアクセルを跳び続けてきた浅田真央。示してきた道が、扉を開く。


――プルシェンコ(あの演技のビデオを観ながら)
まぁ、このトリプルアクセルは普通の出来だね。って言っても真央にとっては、という意味だよ。だって、この時トリプルアクセルを跳べる女性は、彼女しかいなかったんだから。・・・もっと高い得点をつけてあげても良かったと思うよ。トリプルフリップ、トリプルループ、これはなかなかできない。ジャンプの怒涛が止まらない。拍手が続いている、観客を支配しているね〜。素晴らしい。


演技の前半3回転半を8つ、すべて成功させた浅田真央…。伝説の演技は感動の後半へと続いていきます。


皇帝プルシェンコをうならせた圧巻のジャンプ。でもこの演技の凄さはジャンプだけではありません。華麗なるスピン、渾身のステップ。ジャンプ以外でも心を揺さぶる演技は、同じ舞台に立ったライバルの心も震わせました。

次は、第2の視点「オリンピック金メダリストアデリナ・ソトニコワ」へ続きます。


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続く
















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2017年12月16日

浅田真央アナザーストーリーズ、プルシェンコ、タラソワ、ソトニコワが語る








アナザーストーリーズ運命の分岐点

「浅田真央 伝説のソチ五輪」



今年2017年4月、フィギィアスケート選手浅田真央が引退しました。長きにわたって日本中のファンをとりこにしてきた真央ちゃん。親しみを込めて「真央ちゃん」と呼ぶ人も多い愛されたスケーターです。



第1の視点「プルシェンコ、真央の代わりはいない」
第2の視点「ソニコワ、女王が敬服した」
第3の視点「タチアナこれは悲劇だ」




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第1の視点「プルシェンコ、真央の代わりはいない」


伝説のソチのフリー。
番組はこのソチのフリー演技を中心に進行していきますが、浅田真央は、2005年シニアの大会、グランプリシリーズ・フランス大会で公式デビューをしています。この時すでにトリプルアクセル、3回転半の離れ業をやってのけているのですね。



そして5年後、初めて挑んだバンクーバーオリンピック(2010年)。惜しくも銀メダルでした。今度こそ「金を!」と挑んだ4年後のソチオリンピック・・・・。まさかのショートプログラム16位でした。彼女に何があったのか…。真央ちゃん自身は、「自分でもわからない。練習通りの演技ができませんでした」と語っていました。



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運命の分岐点
2014年2月20日



ゆっくりと滑り始めた浅田真央、最初はトリプルアクセル。縦横無尽にリンクを滑り3回転半の連発。見事全て成功。スタンドの拍手はいつしか手拍子に変わっていきます。最後は華麗なるスピン。そして渾身のステップ。力の限りを出し尽くしてフィニッシュ。



得点142.71。
浅田真央の生涯最高得点。観たものの魂を震わせました。


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4年前のバンクーバーでともに闘った元コーチ、タチアナ・タラソワさん

「本当に美しかった、泣いちゃったの、誇らしかった」



タラソワさんは、実況席で真央を全身全霊で途中から立ち上がって応援していました。


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この大会の金メダリストアデリナ・ソトニコワ

「あんな演技自分にはできない。オリンピック史上最高のパフォーマンスよ」



4回転ジャンプでフィギィアスケート界の皇帝に君臨したエフゲニー・プルシェンコ。怪我をしてテレビでこの演技を見ていた彼は、


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「Mao - you was great, special thanks for Axel 3,5! You're real fighter!!」

「トリプルアクセルをありがとう!君は真の戦士だ!」


とツイート。



このメッセージに込めた同じスケーターとしての深い共感をプルシェンコは、多く取材で語っています。あらためて浅田真央のレベルの高さを実感いたします。




『3度の世界チャンピオンおめでとう真央。2度の美しいトリプルアクセル 僕は誇りに思う。僕たちのスポーツを次のレベルへ押し上げてくれてありがとう』


Congratulation to 3 times world champion Mao Asada
2 beautiful 3A, I am so proud of you, thank you for pushing our sport to the next level


とツイート







一流スケーターだから知る浅田真央の凄さ。
フィギィアスケート界の皇帝、プルシェンコは、何をこの取材で語ってくれたのでしょう。


ロシア・モスクワ市内に「エンジェルズ・オブ・プルシェンコ」というフィギィアスケートの学校があります。小さな子どもがいっぱい通っています。運営しているのはもちろんプルシェンコ氏。


年端もいかない生徒に無茶な注文もあり、遅刻してきた生徒にはリンクの上で腕立て伏せもあり、厳しい指導を行っています。



「たかが遅刻と思うかもしれないけど、試合に遅刻するなんてできる?幼稚園児だろうが、中学生だろうが関係ないんだ。選手である以上、どうあるべきかはっきりしないといけない。フィギィアスケートは遊びじゃないんだから…」と。



浅田真央と同じく、今年2017年に引退したプルシェンコ。
彼がスケート学校を開校すると生徒が殺到しました。無理もありません、皇帝と呼ばれるプルシェンコの経歴は、


2002年 ソルトレーク五輪 銀メダル
2006年 トリノ五輪 金メダル
2000年 バンクーバー五輪 銀メダル
2014年 ソチ五輪 金メダル(団体)



4回転ジャンプを武器に4度のオリンピックで通算金メダル2回、銀メダル2回、まさにフィギィアスケート界の皇帝。そんな彼にとっても浅田真央は特別な存在でした。


―――もし浅田真央のような生徒が来たらどうしますか?―――

「そんなことがあればいいけど、まずあり得ない。真央は本当に唯一の存在だから代わりはいない」…。

プルシェンコはこう答えました。


また、バンクーバーのときプルシェンコは、
「浅田真央のレベルは人類最高だよ。俺が女だったら勝てないだろうね」とも。


プルシェンコが浅田真央の演技を初めて見たのは、2005年6月に横浜で開催されたアイスショー「ドリーム・オン・アイス」でのことでした。当時真央は14歳、まだジュニアの選手だったが、プルシェンコの目には特別な存在として写っていました。


―――プルシェンコ
「当時の日本は教科書的な型にはまった演技をする選手が多かったんだけど、彼女は全く違う。なんといっても凄かったのは、あのトリプルアクセルだ」。


「最初に伊藤みどりさんが飛んだのですが、何人か成功した選手はいるけど、真央のように10年以上にわたって、成功させ続けた選手はだれもいない。その成功率は、男子のトップ選手にも引けを取らない。〜〜『浅田真央という選手は、たった一人で女子のレベルを数十年先にまで押し上げた」。歴史上かつていないカリスマ的な選手なんだ』


プルシェンコの目を引いた浅田のトリプルアクセル、空中で3回転半、体をひねる離れ業。


実はフィギィアスケートの歴史上女子は8人しか成功していません。
伊藤みどり、トーニャ・ハーディング、中野友加里、リドミュラ・ネルディナ、エリザベータ・トゥクタミシェワ、紀平 梨花、長洲未来、そして浅田真央。飛べること自体がすごいジャンプですが、浅田のトリプルアクセルは別格だとプルシェンコは語っています。


浅田真央を高く評価していたプルシェンコは、そう、あの発言があります。
2010年バンクーバーオリンピックでのショートプログラムでのことです。


浅田真央は、ショートプログラムでトリプルアクセル1回、フリーで2回のトリプルアクセルを成功させました。女子選手がひとつの大会で3度ものトリプルアクセルを飛んだのは、史上初めてのことでした。(いかにすごいのかがこれでわかります)


浅田真央アナザーストーリーズその2へ続く














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2016年05月30日

ダイアナ妃真実の物語「アナザーストーリーズ」運命の分岐点より@








2015年7月15日放送のNHK「アナザーストーリーズ」より文字起こしをしています。


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イングリッシュローズ…



かつてイギリスのバラと呼ばれた女性

プリンセス・オブ・ウェールズ・ダイアナ、享年36歳

世界中のだれからも愛された女性、ダイアナ




1997年8月31日0時25分、
ダイアナを乗せたメルセデスは大勢のパパラッチに追われていました。パパラッチを振り切ろうと、猛スピードでトンネルの中へ。車は無残に押しつぶされました。なぜダイアナは死んでしまったのか…。


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同乗していたのはエジプト人の恋人、ドディ・アルファイド(42)


そのスキャンダルに満ちた謎の死を世界中のメディアが伝えました。
事故現場はパリ、そこから300キロ離れたイギリス・ロンドン。
ケンジントン宮殿でひとりの男がダイアナの帰りを待っていました。
男が初めて語る本当のダイアナ。




恋に生き続けたプリンセス、悲劇の最期に秘められたストーリー


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画像こちら


【ダイアナ妃事故死“最後の恋”の駆け引き】


イギリス中部の田舎町、チェスターで小さな花屋を営むのは、ポール・バレル(56)
彼は、あの事故以来騒がしいロンドンを離れ、この町に引っ込みました。



花屋さんを訪れた子どもたちに「やることが決まったら、自分のやりたいことをやるんだよ」
と話して聞かせる。


「自分のやりたいことをやる」


それを教えてくれたのが、2歳年下のダイアナでした。バレルは中学卒業後、すぐに執事の仕事を学び、わずか18歳で王室に呼ばれ、1987年から10年間、執事としてダイアナに仕えました。


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ダイアナを誰よりも近くで見続けた男しか知り得ない、彼女の本当の人生を元執事のバレルが語りはじめました。




「―――亡くなったダイアナ妃はベッドに横たわり、白いシーツが首にまでかけられていました。手や足が見えていて、髪は濡れていました。窓は開いていて、ベッドの側では扇風機が彼女の髪を揺らしていました。扇風機が彼女に向くたびに、まつげも揺れていました」……。






1997年事故6日後に葬儀が行われました。当時、すでにチャールズ皇太子と離婚が成立、王室を離れていたにもかかわらず、王室としての葬儀でした。世界中のVIPが参列しました。



ジョージ・マイケル、エルトン・ジョン、トム・クルーズ、ニコール・キッドマン、

トム・ハンクス、アーノルド・シュワルツェネッガー、ジェームズ・キャラハン、

エドワード・ヒース、クリフ・リチャード、ウィリアム・J・クロウ、

オペラ歌手ルチアーノ・パヴェロッティ、リチャード・ブランソン、

ウィンストン・チャーチル卿孫、スティーブン・スピルバーグ、

ベルナデット・シラク、ヨルダンノア王妃、スペイン王、オランダ王女マーガレット、

Hellenesの国王、日本の皇太子、ネルソン・マンデラ、マーガレット・サッチャー元首相、

ヘンリー・キッシンジャー、ヒラリー・クリントン、首相トニー・ブレアなど。



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ダイアナが暮らしていたケンジントン宮殿の前にできた白い模様はすべて、死を悼む市民によって手向けられた花でした。


まだ36歳のダイアナと42歳のドディ…。
彼らはなぜ、命を落とさなければならなかったのか…。



事故のあった夜を振り返ってみる。





ふたりはあの夜(1997年8月30日)ドディの父が所有するパリの最高級ホテル、ホテル・リッツへ食事のために出かけました。ホテルに入ったのは夜10時前。そのままふたりはレストランに向かったものの、他の客からの好奇の目に耐えかね、ドディが使い慣れたスゥイートルームに向かい、そこで食事を楽しみました。



すでにそのころ、ホテルの外にはふたりがいることを嗅ぎ付けたパパラッチが集まり始めていました。ところがふたりは、日をまたいだ午前0時過ぎ、ホテル・リッツに泊まることもできたのに、わざわざパパラッチの目をくぐり抜け、ドディの自宅に帰ることを選びました。


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ふたりを乗せた車がホテルの裏にある通りからこっそり出ました。ホテルを出てシャンゼリゼ大通りへ入り、ドディの家までわずか直線で1.5キロ。ところが車は、シャンゼリゼ大通りには入らず、なぜか別のルートを選んでいます。わかっていたのは、ふたりがすでにパパラッチに追いかけられていたこと…。



事故調査報告書によると、時速100キロ(190キロという説あり)はゆうに超えるスピードだったとされています。カーブがあり、トンネルがあり、そして車は、トンネル内の中央分離帯の13本目の柱に激突しました。衝撃で車は大破、助かったのは助手席にいたドディのボディーガード、トレバー・リース・ジョーンズのみでした。



ドディと運転手アンリ・ポールは即死…ダイアナはこの時生きていました。
救出され病院に運ばれたダイアナは、しかし4時間後死亡しました。



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すぐに事故原因の追求が始まり、さまざまな憶測を呼びました。
最終的に責任を負わされたのは、運転していたホテル・リッツ警備担当副部長アンリ・ポールでした。ふだんは、ホテルの警備担当をしています。この日、たまたま運転手を任されたのです。



それからすぐに、「事故が起きたのは、アンリ・ポールの飲酒運転が原因」と断定されたのです。しかし、アンリ・ポールの名誉を回復しようと、今も闘っているのは、友人のクロード・ギャレック氏(58歳)。





「今も私は、原因がアンリの飲酒だとは信じていません。アンリは飛行機も操縦しますし、責任感が強かったので、飲み過ぎたりしないのです」と、ギャレック氏は語り、友人を失った悲しみの中で、いつも頭をよぎるのはこのことです…「なぜ彼らはホテルに泊まらず、家に帰ろうとしたのか」。


「もし泊まっていたら、あんな悲劇は起こらなかったのです」



なぜあの夜ふたりは、懸命に家に帰ろうとしたのか…。
事故現場からわずか数百メートルしか離れていなかったドディの自宅でした。



実はその夜、ドディの部屋で帰りを待っている男がいました。
ドディの執事、ルネ・デローム(54)―――あの夜ふたりが自宅に帰ろうとした理由を知っていました。



ルネ・デローム、彼は事故後まもなく、もともと暮らしていたアメリカ・ロサンゼルスに戻っていました。ふたりが自宅に帰ろうとした理由は、事故のあった日、出かける前にドディから聞かされていたのです。



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ルネ・デローム画像はこちら


ルネ・デローム
「ドディ様に台所に呼ばれ、『これからホテルに食事に出かけるが、深夜には帰るつもりだ』と言われ、婚約指輪を見せてくれました。ドディ様はあの夜、ダイアナさんにプロポーズしようとしていたのですよ。ダイアナ妃が受けたかって?…きっと受けたに違いないよ」。


はたしてダイアナは、そのプロポーズを受け入れるつもりだったのか…。


ダイアナ妃元執事ポール・バレル
「ダイアナ妃は、彼に好意は持っていましたが、一度も『愛している』と言いませんでしたね。結婚はなかったと断言できます」。


―――いったいふたりの関係はどういうものだったのか…。

ダイアナ妃真実の物語「アナザーストーリーズ」運命の分岐点よりAへ続く






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