2015年11月17日

奇跡の収容所ドイツ兵捕虜の足跡・徳島鳴門







およそ100年前、第1次世界大戦で日本の捕虜となったドイツ兵4715人のうち約1000人を、1917年から1920年まで収容していた収容所の生活ぶりが、先月NHK徳島放送局で放送されていました。


以下内容抜粋


奇跡の収容所」とも呼ばれるこの施設の歴史を掘り起こす作業が進んでいます。


徳島県鳴門市の大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)四国八十八ヶ所の第一番にあたる霊山寺の北1qに位置し県内一の大社として有名な神社です。阿波国の一宮として、古くより「おわさはん」として親しまれ、身近な存在として古くから崇拝されています。


この大麻比古神社の倉庫から1枚の地図が発見されました。
縦1m10p、横2m50p。今とは様子の違う大正から昭和初期頃の境内を示したものと判明しました。


大麻比古神社、種ケ嶋絵理さんは、
「当時により近い地図が出て来るとは思っていなかったのでとても驚いている」と話しています。


【ドイツ兵が残したもの】

鳴門市・大麻比古神社から見つかった地図を調査した徳島大学・佐藤征弥准教授は、地図とドイツ兵の記録を照らし合わせて、今は失われてしまった公園の姿を再現する作業を進め始めています。


調査の結果、ドイツ兵が造った総延長1.1qの歩道と6本の橋の位置が、100年の時を経て明らかになりました。地図には「ドイツ橋」と「めがね橋」が描かれています。この2つの橋を作ったのは、板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようしょ)にいたドイツ兵たちです。第1次世界大戦で日本の捕虜になったおよそ1000人が収容されていました。


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松江所長


当時、捕虜たちは人道的な扱いを受けて、文化、芸術活動も許され、地元の住民からは「ドイツさん」と呼ばれて親しく交流していました。まずドイツ人捕虜に対して、坂東俘虜収容所所長、松江豊寿(まつえとよひさ)陸軍歩兵大佐は、人間味あふれる精神で彼らを迎えることにしたのです。


捕虜が発行した新聞「Die Barackeディ・バラッケ」(収容所という意味?)この中に、収容所近くの“境内の森を散策”したり、少ない道具で道路や橋を造り公園整備をしたことが記されています。ドイツ橋とめがね橋もその一部です。


見つかった地図を調査した佐藤准教授によると、境内に伸びるおよそ100mの小路はドイツ兵が造ったものであることがわかりました。


「“ディ・バラッケ”では、道幅何mの道を造ったと書いてあるが、測ってみるとちょうどこの小路は数字に一致している」と話しています。またドイツ兵が造ったと記録していた、長さ15mの木の橋があった場所も明らかになりました。調査の結果、ドイツ兵が造った総延長1.1qの歩道と6本の橋の位置が100年の時を経て、明らかになりました。


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佐藤准教授は、
「ドイツ兵の公園整備はまったくの無報酬で自発的な作業だった。誰かに強制的にやらされたわけではない。自分たちだけのためではなく、地元の人たちも利用してほしいという願いを込めて造ったと思う」と話す。


ドイツ兵捕虜の歴史を伝える鳴門市ドイツ館に残された記録には、公園を造ったドイツ兵たちが住民たちと心を通わせていた様子が記されています。


鳴門市ドイツ館・川上三郎館長は地元の人びとが「早くドイツ人の方々が、ドイツに帰れますように」とお祈りをしたと記述があるので、地元住民からの思いやりがあったと思う」と話しました。


“ディ・バラッケ”にドイツ兵たちが、神社の境内の森の美しさと、地元の住民の信仰心に深く心に留めていたことを示す記述があります。


朝まだきの日の光が こずえや柔らかい草の鬱蒼とした緑と戯れる
彼らは神殿に向かって 深々と畏敬の念に満ちたお辞儀をする



ドイツ兵が造った公園は、こうした心情を形にしたものでした。
収容所で死亡したドイツ兵の墓を護ってきた地元の高橋敏夫さん、文子さんご夫妻が花を手向けます。


ドイツ兵の墓は一時存在が忘れ去られていましたが、第2次世界大戦後、敏夫さんの両親が発見して手厚い供養を始めました。このことがドイツ兵と地元の人びととの交流の歴史を見直すきっかけになりました。


遺志を継いで、墓を護っている高橋さんは、「現代になってドイツの文化が盛り上がってきたので感激しています。やはり友愛精神。戦争で殺し合いをするのではなく敵国であっても互いの国民同士は愛し合うということ…」と話しています。高橋さんはドイツより表彰されています。


100年前、徳島・鳴門に「奇跡の収容所」があったこと、初めて知りました。友愛精神、思いやり、温かさ、敬意…言葉も分からない人びとがお互いを知りお互いを大切に思う…。ぜひ、今度行ってみたいと思います。


そして、ググってみるとありました、ドイツのニュースダイジェストというサイトから引用します。


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以下転載〜〜

【100年続く日独交流】

この収容所での生活は、その後もずっと、ドイツ人の心に残っていた。ドイツでは、フランクフルトで「バンドウを偲ぶ会」が開かれ、1972年に鳴門市ドイツ館がオープンすると知った元ドイツ兵捕虜たちからは、当時の写真や手紙が多数寄せられた。
 

「私は第2次世界大戦にも召集を受け、運悪くソビエト連邦(ソ連)の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲル(収容所)で冷酷と非情を嫌というほど思い知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。


バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。……私は確信を持って言えます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか」ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)  



「懐かしきバンドウの皆様。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。バンドウラーゲルの5カ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色あせることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。


あの頃の仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡が取れる33人は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。


会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、はるかなる御地へ熱い思いを馳せているのです。……目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などがまぶたに浮かんできます」エドアルド・ライポルト(コーブルク市在住)
 

元ドイツ兵捕虜が「バンドウ」に寄せた手紙から、彼らの鉄条網の中での青春の日々が、決して不幸なものではなかったことを確信できる。100年足らずたった今も、ビールやソーセージ、バウムクーヘンをはじめ、当時日本にもたらされたドイツの文化や技術が、しっかりと日本に根付いている。
転載ここまで〜〜


この収容所では、定期的に音楽会が催され盛況だったようです。「和洋大第音楽会」が徳島市内で開催され、大盛況だったということで、ドイツ館を訪れたらわかるようです。ドイツの文化や知識、パン作り、酪農、器械体操、演劇、音楽など多岐にわたってドイツ兵の人びとは日本人へ教えてくれた。そうした交流が続いていたようです。


実はこれも知らなかったのですが、ベートーベンの「第九」交響曲は、1918年6月1日、この板東で、日本で初めて演奏されました、ドイツ兵捕虜によって。


ドイツ人俘虜を人道的に扱った坂東俘虜収容所松江豊寿陸軍歩兵大佐、すごい人がいるものです。ひとりの日本人として感謝の気持ちです。

読んでいただきありがとうございました。







参考記事
Bando-Sammlung日本語あり
Die Macht der Musik


posted by キキ at 01:03 | 歴史の真実 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする