2015年03月23日

占領下沖縄ジープにひき殺された6歳少女







報道写真家の嬉野京子さんによる講演内容を「憲法を守る婦人の会」で聴く機会がありましたので、ご紹介したいと思います。



1965年、今から50年前のことです。
米軍占領下の沖縄については、本土ではまったくわからないことでした。米軍が統制していたからです。



沖縄が日本でない、このことを思い知らされたのは飛行機のなかでした。沖縄本島が眼下に見えはじめると、スチュワーデスが「カメラをしまって下さい」。撮影が禁止されました。ひとりでも撮影をするものがいると、フライト自体が許されないのです。



4月中旬、私は祖国復帰行進団といっしょに、本当最北端の辺戸岬(へどみさき)に向かって歩いていました。中部の嘉手納基地にさしかかった時、行進団の人に、「持っているだけで逮捕されるし、行進団にも弾圧がかかるから」とカメラを預けるように言われました。



4月20日、宜野座村に入りました。
小学校で休憩に入ったとたん、「子供がひき殺された!」。



なんと行進団の目の前で、小さな女の子が米軍のトラックにひき殺されたのです。手に通園用バッグを持ったまま…。死んだ女の子の側に突っ立っているだけのアメリカ兵。



しかし驚いたのは、駆けつけた日本の警察でした。
米兵を逮捕するでもなく、軍用車がスムースに走れるように交通整理を始めたのです。



これを目の前にして何もしないわけにはいきません。「撮らせてほしい」と懇願しました。「生きて帰れないよ」と言われましたが、引き下がれませんでした。「わかった、見つからないようにぼくの肩越しに撮ってくれ」、1人の男性が肩を貸してくれ、たった一度押したシャッターがこの写真です。



tugayama.jpg
(画像はこちらより拝借)




フィルムは行進団の手に渡り、数日後には地下ルートで東京に届き、ある新聞(akahata)に掲載されました。その新聞を見たときは怖かった、自分に何か起こりそうで…。でもすごい衝撃でした。これが沖縄なんだと。



1967年、再び渡航しました。人民党(復帰前、瀬長亀次郎を党首とする沖縄で最も先進的な政党)の機関誌編集部に協力をお願いしました。



アメリカは1953年に土地収用令を出し、沖縄全土で農民の土地を次々取り上げました。
伊江島の人たちは戦後2年間、島を離れて本島や他の島に収容されていました。



帰島したとき肥沃な農地はすべて米軍基地となっていました。やっと耕作を始めると今度は、朝鮮戦争に伴う新たな土地収用が進められ、米軍はブルドーザーで家を押しつぶし、作物を焼き払いました。島の63%が米軍基地になりました。



土地を奪われた島民たちは、阿波根昌鴻(あはごん しょうごう)さんを中心として、抵抗の砦「団結道場」を建てました。その起工式を撮影に出かけたところ、嘉手納基地から来た米軍の憲兵が、私の目の前で島の人々を逮捕していきました。4人の憲兵が1人の冬眠に掴みかかり、まるで荷物のようにトラックに放り投げて…。



阿波根昌鴻さんは平和運動家 沖縄生まれ 
「全沖縄土地を守る協議会」の事務局長、「伊江島土地を守る会」の会長を務め、
1955年7月から1956年2月までのあいだ、沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行い、米軍による土地強奪の不当性を訴えた。
2002年肺炎で死去




夢中でシャッターを押していると、パッとカメラを取り上げられ、フィルムを抜かれました。3台カメラを持っていましたが、2台は取り上げられ、最後の1台をかばって私はしゃがみこみました。私の突然の行動に驚いた憲兵たちは、わたしを掴んで突っ立っていました。



その時、憲兵の足の間から、1人のおじいさんがひょこひょこ、こちらに向かってくるのが見えました。島の人たちが「何事か」と集まってきたのです。



私は抱えていたカメラをそっとおじいさんに手渡しました。一瞬でした。
おじいさんは、さっとカメラを隠して遠ざかってくれました。


農民の逮捕に抗議する集会が基地のゲート前であり、私も駆けつけました。
カメラは、島の人が農具を入れる麻袋に入れて運んでくれました。しかし、集まった農民をかき分け、11人の憲兵隊が、まっすぐ私に向かってきました。基地に連行されました。


憲兵大佐の質問は、

「あなたは伊江島の人ではないですね。」次に、
「あなたは沖縄の人ではないですね。」そして、
「あなたは嬉野京子さんですね。」…。


これはダメだ…。生きて帰れない‥‥。


怖くて怖くてどうしようと、生き延びるために必死で考えました。頭が痛くなるほど考え「尋問に答える義務はない」と言ったのです。



そのとたん、憲兵大佐の態度がガラリと変わり、「沖縄にいる限り、生殺与奪の権利はわれわれが持っているんだ」と、スチール製の机の引き出しをバーンと蹴飛ばし、私は釈放されました。



人民党からは島を離れるようにとの指示が出ました。これ以上島にいると危険だし、党首の瀬長さんにも迷惑がかかるかもしれない…。指示に従うことにしました。



しかしフェリーは米軍に押さえられ、憲兵は港に張り付いています。
何とか漁船をチャーターしてもらい、船底に隠れ、本島に逃げ帰りました。



電話は盗聴されているので使えず、人民党からの指示を待つだけ。
たまたま届いた夕刊を見たところ、なんと私が指名手配された、という米軍発表がでかでかと掲載されていました。



理由は、米兵に暴力を働いた、というのです。伊江島では山狩りが始まりました。へんぴな場所の、ドヤ街のような地域の家に隠れました。とにかく沖縄から出なければ。弁護士を依頼し、各政党、団体を回り、「助けて」と訴えました。



何とか取ってもらった他人名義のチケットを持って、空港に向かった私の後ろには、各政党の三役クラス、全軍労や民主団体のそうそうたる面々がつきました。



出国の係官はその人たちを見て、黙って通してくれました。もし私を逃したことがバレても、その人たちが守ってくれる、との信頼があったのです。


以上がお聴きした内容です。





沖縄は本土に復帰しました。しかし米軍基地はそのままです。いえ、それ以上です。そして米軍基地を75%も抱えさせられた沖縄の人々は、一度も憲法9条の恩恵にあずかっていません。



去年沖縄へ旅行した際、すでにキャンプシュワブは以前の様子と違っていました。その2年前に行った時とは明らかに雰囲気が違っていて、とにかく人が多かったのです。辺野古に新基地を建設するために防衛省が手配したのか、ゴムボートや偵察艇みたいなのがいて、反対住民がその様子をじっと見ている感じでした。


沖縄は、基地によって成り立っていると言う人がいるようですが、沖縄に行ったらそうでもないことがわかります。立派に本土から、中国から、そのほかの国々からの観光客によってちゃんと生計を立てている人がいます。


では、実際その沖縄の基地による経済事情はどうなのか。


県民総所得 : 9兆9000億円 (うち基地収入2000億円、5%)
全労働人口 : 62万人 (基地従業員 1.5%)

1kuあたりの平均的な土地の生産性16億円(基地の場合9億円)




基地は沖縄本島の18%を占めている
基地収入は2000億円(うち1300億円は日本負担)
   ⇩            ⇩
軍用地料800億円        
基地従業員給与500億円     本来米軍が払うべき金


雇用はどうか

<返還前>               <返還後>(名称変更される)
ハンビー飛行場 100人     ⇒北谷ハンビー 2259人 22倍
メイモス射撃場  0人      ⇒アメリカンビレッジ(埋め立ててエリア拡大)3563人
牧港米軍住宅地 196人     ⇒那覇市新都心 7168人 36倍
天願通信所  4人        ⇒うるま市市役所周辺 2431人 607倍
泡瀬通信所  86人       ⇒沖縄泡瀬地区 3257人 38倍
那覇空軍弾薬 0人
補助施設跡地 470人     ⇒那覇市小禄・金城地区 6769人 14倍




返還後、確かに雇用は増えましたが、全体の人口からすれば微々たるものです。基地がなければ沖縄は成り立たないというのは、数字を見れば明らかです。


私が聴いたのは、宮古島や名護市に住んでいる人々、住んでいて現在は京都で沖縄の基地反対を訴える人です。


それとは別に、沖縄最大の建設会社國場組元会長國場幸一郎や前知事仲井真氏などは、親中派だということは沖縄では表には出てこないことですが、誰でも知っているようです。


國場幸一郎元会長は、「沖縄最大の建設会社、國場組元会長の國場幸一郎氏が『沖縄にとって中国は親戚で日本は友人。親戚関係をもっと深めたい』と語っていたとされます。

基地建設により、得をしたい人…。
補助金が欲しい人、身内だけは潤いたい人…。そういう人が沖縄にもたくさんいるということです。









posted by キキ at 00:00 | 歴史の真実 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする